たった2時間で30人を殺害…津山30人殺しとは
津山30人殺しは1938年5月21日、岡山県の山間部にある集落で起きた大量殺人事件です。たった2時間足らずで30人を殺害するという、世界の犯罪史に残る残虐かつ恐ろしい事件。当時22歳だった都井睦雄が犯人であり、犯行後に遺書を残して自殺しています。
生き残りはいたものの、村のほとんどの人が殺害されてしまったために、いまだ多くの部分が謎に包まれています。また、20代の若者が2時間で30人もの人を殺害するという前代未聞な内容であるため、事件発生から80年以上経った今でもテレビや雑誌などのメディアで取り上げられ、多くの人の興味を引き付けています。
津山30人殺し事件発生当日の詳細
事件の前日、1938年5月20日の午前5時。犯人の都井睦雄は村に通っている電線を切り、辺りを真っ暗にしました。そして、日付が変わった5月21日深夜1時に都井睦雄は黒の詰襟服に身を包み、地下足袋を履き、足にはゲートルと呼ばれるケガやうっ血を防ぐための防具を装着。そして、頭には懐中電灯と鉢巻を絞めていました。
さらに自転車用のランプを首から下げて、弾薬の入った袋を肩にかけます。そのほかにも日本刀や短刀、猟銃など大量殺人に備えて数々の凶器を携え、凶行に移ります。まず最初に犠牲となったのは都井睦雄の祖母「いね」。いねはコタツでうたた寝しているところを襲われ、斧で首をはねられます。首は胴体から勢いよく千切れ、大量の血が噴き出します。
いねを殺害した後、都井睦雄は11軒の家を回り、一家を次々に惨殺。日本刀でメッタ刺しにしたり、猟銃で体を吹き飛ばしたり、淡々と人の命を奪っていきます。威力の強い猟銃で殺害された人は内臓が飛び散り、そこには地獄絵図が広がっていました。
そして、都井睦雄が恨みを持っていたという女性に対しては、口の中に刀をつき刺したり、乳房をえぐったりと、残虐極まりない行為で殺害。さらに、妊婦であった女性と胎児も容赦なく殺害しています。
午前2時半頃になると都井睦雄は犯行を終え、集落から離れていきます。その30分後、都井睦雄は隣接していた楢井集落に立ち寄り、1軒の家に侵入。怯える家主に向かい、「怯えなさんな、紙と鉛筆をもらいたい」といい、紙と鉛筆を受け取って家を後にします。
そして、都井睦雄は山の中に入って猟銃で自殺。近くには遺書が置かれていました。
生い立ちと真相|津山30人殺し事件の犯人「都井睦雄」の生い立ち
1917年3月5日に誕生した都井睦雄は、2歳の頃に父親を、3歳の頃に母親を亡くしており、以後姉と共に祖母に育てられます。彼が6歳の頃、事件現場となった集落へ移り住みます。当時、都井睦雄の家庭は裕福であり、何不自由ない生活を送っていたそうです。学生時代、都井睦雄は学業が優秀であり、進学も視野に入れていたようですが、いねに反対されたことで進学は断念。
その後、都井睦雄は体が弱かったこともあり、自宅に引きこもるようになります。しかし、村にはこれといった娯楽がなく、当時の都井睦雄は性行為に明け暮れていたといいます。村にいる複数人の女性と関係を持っていたそうです。
そして、1937年に受けた徴兵検査にて結核が発覚。このことがきっかけで村全体から侮辱され、都井睦雄の中で大量殺人の計画が立てられてていったのです。
生い立ちと真相|都井睦雄が犯行に至った経緯①夜這い文化
都井睦雄が犯行に至った経緯として、夜這い文化が関係しているといいます。そもそも夜這いとは、夜に女性の寝床に男が侵入して性行為を楽しむことです。娯楽のなかった村では性行為が唯一の楽しみであり、既婚者も独身も関係なく夜這いしていたといいます。
都井睦雄も夜這いによって村の複数人の女性と関係を持ちますが、結核が分かってからは女性から拒否されることが多くなったのです。そして、村の女性への恨みがふつふつと湧き上がったのではないかと考えられます。
生い立ちと真相|都井睦雄が犯行に至った経緯②結核の発症
都井睦雄は1937年に徴兵検査を受けるのですが、そこで肺結核と診断され不合格に。結核は今でこそ治療法が確立されていますが、当時は不治の病と呼ばれ、死刑宣告を受けたも同然の病気でした。そのため、どうせ死ぬなら自分を蔑む集落を破壊してやろうという考えに至ったのかもしれません。
生い立ちと真相|都井睦雄が犯行に至った経緯③村からの侮辱
上記でも述べた通り、都井睦雄は結核によって兵役を不合格になっています。しかし、兵役につかないことは当時の男性にとって、かなり屈辱的なこと。都井睦雄は精神的に追い詰められていたと考えられます。
その上、「戦時中であるにも関わらず日本の兵役に付かないのはどういうことだ」と都井睦雄に対して集落全体が侮辱するようになったのです。この村全体による侮辱も都井睦雄を大量殺人に駆り立てた理由の1つだと考えられています。
生い立ちと真相|70年後の証言から見る真相①寺井ゆり子さん
津山30人殺し事件には数人生き残りがおり、その1人が寺井ゆり子さんです。寺井ゆり子さんは2014年の段階で生存が確認されているものの、現在どうなっているのかは不明です。一説では津山30人殺し事件を作り出した張本人と言われ、差別的な扱いを受けていたとの話もあります。
2011年には、石川清氏が寺井ゆり子さんへインタビューを行っています。事件から70年後の証言によると、寺井ゆり子さんは差別されながらも再婚相手を見つけ、子どもをもうけているようです。
生い立ちと真相|70年後の証言から見る真相②西川良子さんの夫
2008年5月に発行された「週刊朝日」には、70年後の証言として当時を知る人物へインタビューした記事が掲載されています。70年後の証言をしたのは、被害者の1人である西川良子さんの夫。取材時にはすでに90代だったため、現在生存しているかどうかは不明です。
記事には事件現場のリアルな描写や都井睦雄の事件発生までの行動などが、事細かに書かれています。また、津山30人殺しから70年後の証言として、夜這いの文化はなかった、寺井ゆり子さんへの失恋が事件の原因だったなどの情報も掲載されています。そして、多くの女性と関係があったのは都井睦雄の妄想だったと、西川良子さんの夫は語ります。
これまで語られることのなかった70年後の証言により、事件の全容が明らかになってきました。しかし、事件の関係者はご高齢な方ばかりであり、今後新情報が出てくることはなでしょう。
津山30人殺しを取り扱った作品
津山30人殺しはたった2時間で30人を殺害するという前代未聞のセンセーショナルな事件とあって、この事件を題材にした小説や漫画、映画などが多数存在しています。数ある作品の中で最も有名なのが、「八つ墓村」という小説です。横溝正史氏の代表的な作品でもあり、映画化もされています。
そのほか、津山30人殺しで実際にあったことを盛り込んでいる「丑三つの村」や「負の暗示」といった漫画などがあります。
津山30人殺し事件のまとめ
夜這い文化や村全体からの侮辱など、様々な要因が重なって起こってしまった津山30人殺し事件。とはいえ、計画的かつ残虐極まりない犯行は許されるものではありません。被害に遭われた方は、電気のない真っ暗闇の中で殺人鬼に追われるという想像を絶する恐怖を感じたことでしょう。最後にはなりましたが、被害者の方々のご冥福をお祈り申し上げます。